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07/26/2014

豊臣家の本拠が大坂というのは誤解/秀頼の実像 その1

今日は大阪城天守閣館長・北川央氏の講演「大坂城主 豊臣秀頼の実像」を聴きました。北川氏はいつも膨大な史料を提示しながら、最新の研究成果を分かりやすく解説されます。
きょうも、意外な話題が次々。まず、大坂城と豊臣家の関係です。〈天下統一の拠点として秀吉が大坂城を築き、大坂城で豊臣秀頼と母・淀殿が自害し、豊臣家が滅亡したため、豊臣家の本拠は一貫して大坂にあったかのような〉印象 を持つ人が多いのですが、これはまったくの誤解、という歴史的事実が紹介されました。
まず、秀吉が亡くなったのは、大坂城でなく伏見城です。大坂城を造ったのも秀吉でなく織田信長、本能寺の変のあと池田恒興が城主となり、1年後の天正13年、秀吉が大坂城に入城します。秀吉は本格的な築城工事を開始し、天正13年に天守閣が竣工します。秀吉は大坂遷都を画策しますが失敗、逆に秀吉自身が関白となり、京都に聚楽第(じゅらくてい)という城を築城し、天正15年、正室北政所、母大政所とともに聚楽第に引越す羽目になります。大坂にいたのはほんのわずか。
天正20年3月朝鮮出兵のため、秀吉=肥前名護屋城、聚楽第=秀次、大坂城=北政所に3分化。8月、秀吉が伏見城築城開始。文ろく2年、大坂城に秀頼誕生、秀吉は大坂でなく伏見に引越し。翌年、秀頼も伏見へ。
秀吉・秀頼=伏見、秀次=聚楽第 となったわけですが、その後、関白・秀次が追放され切腹。聚楽第廃止、地震により伏見城全壊。再興した 伏見城に秀吉が再び引越し。同年、秀吉、秀頼は京都屋敷へ。
秀吉は大坂城で新たな築城工事を開始し、「秀頼は大坂へ」との遺言を残して慶長3年、伏見城で亡くなります。
この流れをみると、秀吉は大坂より京都で過ごした方がはるかに長かった・・・

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