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07/27/2014

秀吉の考えた豊臣長期政権構想/秀頼の実像 その2

大阪城天守閣館長・北川央氏の講演の続きです。

なぜ秀吉は、自分の死後、秀頼を伏見でなく、大坂城に移すことにしたのか? 京都では反乱軍に攻められたとき十分に守ることができない。そこで大坂城を難攻不落の城にしたうえで、秀頼を大坂に引越しさせることにします。
秀吉は自分の死後、豊臣政権を万全にするため、徳川家康を政権担当者として伏見城で政務を執り、前田利家を大坂城で秀頼の後見役とする遺言を作りました。ただし、家康も利家も老齢のため、それぞれの子供がその地位を継承することに。家康の謀反を警戒した秀吉は、伏見城(家康)下に豊臣に近い西国大名、大坂城(秀頼)下に家康に近い東国大名を住まわせ、互いに監視・けん制させます。
ところが、秀吉が亡くなって間もなく、利家が病身となり、やがて死亡。秀吉の遺言どおり地位と役割を継承した前田利長は、家康によって金沢に引っ込まされ、すかさず家康が伏見城から大坂城西の丸に入ります。それまで西の丸にいた北政所お祢は京都新城へ。
家康の大坂入城に伴い、伏見城下にいた大名たちも移り住み、豊臣政権は大坂城に一元化されます。しかし、関ケ原合戦に勝利した家康は、戦後処理が終わると伏見城に戻って政権運営を担当します。

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