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02/05/2016

<あさが来た>、山王寺屋跡に行ってみた

あさのお姉さん・はつが嫁いだ山王寺屋のモデルは、天王寺屋でした。両替商の先駆けで、振替手形や帳簿を考案した老舗両替屋です。それだけに格式が高く、少々とっつきにくい店だったようです。ドラマでもそんな雰囲気でした。
残念ながら、時代の波に乗れず、ドラマでは倒産して、その後和歌山でみかん農家として息を吹き返しています。その長男が、加野銀行で商売を学びたいと、今週あさを訪ねて家出してきました。2/8の週は和歌山ロケで撮影した映像が流れます。

ところで、天王寺屋はどこにあったのでしょうか? 鎌田さんに教えていただいた場所にでかけてきました。
北浜の大阪取引所(株式は大証と東証が合併して東京に一本化、日本のデリバティブは昨年から大阪に一本化されています)からほど近い中央区今橋1丁目5の開平小学校南西角に、大阪市顕彰史跡の碑「天五に平五 十兵衛横町」が建っていました。
両替商の最有力者十人両替のうち、天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛がこの地で向かい合わせに店を構えていたので、俗にこの地を十兵衛横町と呼んだそうです。

HP「Drifting in Osaka」(浪華百景 大阪市史跡顕彰碑)に、次のように書かれています。
なお、開平小学校の南東の壁に、「集英小学校跡」の碑がありました。昔の集英小学校が他の学校と統合されて、開平小学校になったのでしょうか。

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天五に平五 十兵衛横町 中央区今橋1丁目5・集英小学校前 江戸時代

【碑文】 近世広く今日の銀行業務を営んでいた両替商の最有力者十人両替のうち、天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛がこの地で向かい合わせに店を構えていたので、俗にこの地を十兵衛横町と言った。

 関東の金遣・上方の銀遣とも言われるように江戸時代には金・銀・銭の3貨幣が併存し、地域により流通形態が異なる上、3貨幣が日々の相場で流通するのでその取扱いは煩雑であった。両替業はこのような貨幣の交換を営み、さらに貸付・手形振出・為替・預金・大名貸などを行い、「天下の台所」といわれた大阪で最も発達した。大阪の両替商は天王寺屋五兵衛が寛永5年(1628)にはじめたと言われ、寛永12年(1635)には平野屋五兵衛も開業している。商品経済の急速な発展に伴って、17世紀後半には両替商も増え、両替屋仲間を統括する公の期間として寛文10年(1670)の「十人両替」ができ、格式の高い両替商が選ばれている。天王寺屋も平野屋も十人両替をつとめる豪商で、今橋1丁目の八百屋筋に天王寺屋と平野屋が店を構えていた。そこで八百屋筋のあたりを「天五に平五、十兵衛横町」、「天五に平五、二十五人両替」などと呼んだという。

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