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07/03/2016

本願寺の謎が 解けた

今日は、新大阪の朝顔市に行こうかと思っていたのですが、初日の朝早く行かないときれいな朝顔が見られないかなと、今年はパス。去年来ていた陸上自衛隊音楽隊の演奏も無さそうだし。今話題の歌姫が来演となれば、迷わず行くところでしたが・・・

ということで、午前中は司馬遼太郎さんの「城塞」の続きを読むことに。午後は、テレビ「そこまで言って委員会NP」。

「城塞」に面白い文章を見つけました。全集29巻「城塞 二」p.85。
今までなんとなく疑問に思っていた次のような本願寺の謎が解けました。

1. 本願寺はもともと大坂にあったのに、現在、本願寺が京都にあるのはなぜ? (大坂の本願寺は石山本願寺といわれ、大阪城に<この辺りにあった>という碑がいくつかあります。ただし、最近の学説では、石山本願寺と呼ぶのは間違いで、大坂本願寺が正しいとされます。現在、大阪の南御堂には、石山本願寺の詳細な立体模型が展示されています)
2. 今、京都に本願寺が西と東のふたつあるのはなぜ?
3. 西本願寺、東本願寺と豊臣、徳川の関係は?

司馬さんの小説「城塞」によると、
1. 本願寺は室町末期から戦国期にかけて大発展し、末寺2万を数える日本最大の教団となった。久しく大坂の石山(その後の大坂城の位置)に本山を置いていたが、織田信長が退去を命じたためこれと決戦し、長期戦になり、ついに屈した。このあと大坂を退去したが、信長の死後、秀吉の融和政策によって救われた。秀吉は京都の六条の地を与え、ここに本山を移らせた。このため本願寺は豊臣に恩義を感じるようになった。
2. 家康は、関ヶ原の戦勝のあと、この大教団の存在をおそれ、別個に本願寺(東本願寺。いままでの本願寺は西本願寺と呼ばれるようになった)をつくり、日本中の末寺に東本願寺に帰属することを勧め、半分を傘下にした。
3. 西本願寺は豊臣方、東本願寺は徳川方。幕末にも、徳川の与党である東本願寺は佐幕派、かつての豊臣びいきの西本願寺は徳川を倒す側に回った。

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