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12/28/2018

「日本国紀」で日本歴史をざっと振り返り 6


第四章「鎌倉幕府~応仁の乱」(前)

・鎌倉幕府成立は、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とされてきたが、現代ではそれ以前に始まっていたとする説が主流。1180、1183、1184、1185、1190年説などがある。
・鎌倉幕府という概念は、明治時代に生まれた。当初の鎌倉幕府は東国支配の地方政権、西日本は朝廷が実権を握っていた。
・北条氏は源頼朝の庇護者であり、頼朝の妻・政子は北条氏の出。当時は女性が結婚しても出身家の姓を名乗っていたので北条政子と呼ばれた。→住吉大社の「誕生石」は、北条政子が<頼朝の子を身ごもった丹後局>を殺そうとしたため、住吉大社境内まで逃れてきた丹後局が大きな石を抱えて出産した場所と伝えられる。このとき生まれたのが、島津家初代・島津忠久。
・北条政子が尼将軍と呼ばれるのは、鎌倉政権に不満を持つ武士や僧兵に対抗するため、御家人(頼朝と主従関係にある武士)を集め、頼朝がいかに彼らのために戦ってきたかを熱く説いた名演説に由来する。
・「一所懸命」は鎌倉幕府の御家人が、自分の土地をしっかり耕し、命を懸けても守り抜くというのが語源。一方、御家人たちは日常的に戦いの訓練を怠らず、もし鎌倉に危機が迫れば、馳せ参じた(「いざ鎌倉」)。→井上章一「京都ぎらい 官能篇」P229によれば、「関東の御家人たちは、おおむね自分の在所にとどまった。一所懸命ということでもあるのだろう。日常的に鎌倉へ出向く習慣はなかったようである。鶴岡八幡宮の修理にこいというていどの要請なら、たいてい理屈をつけてことわった。「いざ」という時にしか、かけつけなかったということか」
・12世紀の終わりに、チンギス・ハーン率いるモンゴルが突如、ユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国を築いた。その版図は歴史上最大で、世界人口の半数以上を統治した。
・その孫、フビライ・ハーンは日本に武力制圧をほのめかす国書を送ってきた。朝廷はおろおろするばかりだったが、北条時宗は断固黙殺した。現代の歴史学者の中には、国際情勢と外交に無知だったと批判する人がいるが、無礼な手紙に返事をしないのは当然。彼は屈辱的な外交はできないと、恫喝に委縮することなく、誇りを持って対応した。1237年、元(蒙古)は対馬・壱岐を襲い、多くの島民を虐殺した(文永の役)。捕虜の女性の掌に穴を空け、繩を通して舟べりに吊り下げた。2週間後、軍船は高麗に引き上げたが、多くが沈んだ。かつては台風のためとされたが、新暦11月であり、玄界灘の時化に巻き込まれたと考えられる。
・1275年、時宗は元の使者を斬首した。現代の学者は批判するが、彼らは日本の地理や国情を調べる偵察員だった。1281年、元は世界史上最大規模(4500艘、14万人)の軍隊を送り込んできたが、大型台風も襲来し、元軍は壊滅状態になった。

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