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12/29/2018

「日本国紀」で日本歴史をざっと振り返り 7


第四章「鎌倉幕府~応仁の乱」(中)

・「文永の役」「弘安の役」は、現在「元寇」と呼ばれるが、これは江戸時代に徳川光圀が「大日本史」で使ったもの。最近の歴史教科書は、「元寇」「蒙古襲来」はモンゴルや中国に対する侮蔑的な言葉であるから使わないという流れになっている。笑止千万である。歴史用語を現代的な感覚で言い換えたり、使用禁止にする行為は、歴史に対する冒とくである。→江戸時代に水戸光圀が作った言葉だったとは・・・
・世界の大半を征服したモンゴルからの攻撃を二度まで打ち破った国は、日本とベトナムだけ。→へーえ。
・困窮した御家人、不満が蓄積していった武士・・・治安が乱れ、西日本各地に徒党を組んで他人の土地や財産を奪う武士集団「悪党」が生まれた。14世紀になると、悪党は幕府の権限も及ばないものになっていく。→現在の「悪党」とはニュアンスが違っていますね。
・優雅を重んじた平安の貴族文化から質実剛健な武士の文化へ。「平家物語」などの軍記物語、説話集、随筆の「徒然草」「方丈記」、力強さにあふれた運慶・快慶の金剛力士像など。→武士らしい文学、芸術が花開きました。
・「救済は僧によってもたらされる」とする従来の仏教に対し、「個人でも念仏を唱えれば救済される」と説いたのが法然と親鸞。平安時代末期の仏教界はすっかり堕落腐敗していた。親鸞は、偽善と欺瞞を打ち破るため、あえてそれまでの僧が隠れて行っていた肉食妻帯を公言した。→堕落腐敗していた仏教に新風を吹き込んだのが、法然・親鸞だったということですね。
・南北朝に分かれたのは、持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)に分かれたのがきっかけ。室町時代には南朝が正統と見做されていたが、その後は北朝が正統とされた。江戸時代になって、水戸藩が編纂した「大日本史」は三種の神器を捧持(ほうじ)していた南朝を正統とし、南朝正統論が有力となった。ただ、北朝が持っていた三種の神器が偽物というのは後醍醐天皇の主張によるもので、実は本物だった可能性が高い(足利尊氏が南朝と和議を結んだとき、南朝は北朝から三種の神器を取り戻した。偽物なら取り戻す必要はない)。
南朝が正統との考えは、明治になっても受け継がれた。学会においては、南朝・北朝が対等に扱われ、国定教科書もそうなっていた。ところが明治44年に、国定教科書が南朝を正統とし、以後、北朝は認められなくなった。以後、大東亜戦争(世界大戦は、戦後GHQが押し付けた名称)終結まで「南北」という言葉は学会で禁句となった。北朝の5代の天皇は、歴代125代の中に数えられていない。→南朝の御村上天皇は住吉に置かれた行宮(あんぐう)で最晩年の8年間を過ごしました。御村上天皇は「建武の中興」をリードした後醍醐天皇の皇子、住吉の行宮(天皇の仮の住まい)は住吉大社の神主・津守氏の居館(正印殿)でした。行宮跡は住吉大社の近くにあり、「NPOすみよし歴史案内人の会」のまち歩きコースの中にも組み込まれています。

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