09/19/2018

住吉と島津と田辺製薬


きょうは道修町の田辺三菱製薬へ。講演とシンポジウム「水都大阪と住吉」のチラシを届けに。
合わせて1時間余り、史料館の展示を解説付でじっくり鑑賞しました。2年前、神農祭のとき、ざっと見たことはあったのですが、今年3月、中央公会堂で開催された「道修町講座」で田辺三菱製薬の歴史と住吉とのかかわりを聴きましたので、興味も倍化しました。道修町の企業博物館の中では最大規模を誇ります。土日、祝日は休館。入館には予約が必要です。

品質展示の中に、デミング賞受賞者の一覧がありました。1951年第1回デミング賞受賞4社の中に、田辺製薬とともに富士製鉄・八幡製鉄が入っていたんですね。なんとなく因縁を感じました。田辺三菱製薬のもとになった4社のうち、吉富製薬は三菱化成系で福岡県にありました。私が高校生のころ、弘田三枝子のCMとともに大ヒットしたアスパラエースは大阪の田辺が開発したそうです。

ごく最近明らかになった「島津義弘が関ケ原で敗れた後、田辺屋道与が住吉に匿ってくれたおかげで薩摩まで帰国することができた。その恩義に報いるため、義弘は道与に秘伝の薬の調合を伝授した。これが田辺製薬のルーツになった」という史実を今年4月にNHK-BS「偉人たちの健康診断」が取り上げたいきさつを聞きました。「田辺からNHKに働きかけたわけではありません。NHKは島津義弘が医学・薬学に通じ、家来の命を助けていたことをつかんでおり、産経新聞が取り上げた道与と義弘の話をもっと詳しく聴きたいと、当社に取材にきました。当日は史料館を閉館にして対応したのですが、番組を見ていると、終盤に近づいてもまったく登場する気配なし。<あれ?>と思っていると、最後の最後に当社の話が集中的に出てきて驚きました」。

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09/16/2018

住吉大社の「禁裏御祈祷場所の場所の石標柱」


反橋の架かっている神池の南端近く、南牧橋の西詰め南北両脇に「禁裏御祈祷場所の石標柱」が対になって立っています。
禁裏(きんり)とは、みだりにその中に入ることを禁じるという意味で、皇居・御所・宮中・天皇を表します。

幕末、嘉永6年(1853)7月8日、黒船が来航し、開国の要求を突きつけました。孝明天皇は12月3日、住吉社に天下泰平・宝祚長久(宝祚:ほうそ=天子の位、皇位。長久:ちょうきゅう=長く続くこと)の臨時御祈祷の勅命(天皇の命令)を出し、津守神主は住吉社前の長峡浦(ながおのうら)で浜祈祷(はまぎとう)を勤修(ごんしゅ:法要や儀式を執り行うこと)しました。

翌年2月22日、二十二社(神社の社格の一つ。国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣(ほうへい=天皇の命により神社・山稜などに幣=ぬさ=をたてまつること。幣、幣帛=へいはく=とは神に祈るときに捧げ、また祓いに使う紙・麻などを切って垂らしたもの。ごへい)を受けた)臨時御祈祷の勅命により、再度の浜祈祷を勤修、以降、安政5年(1858)、文久2年(1862)等たびたび住吉大社で浜祈祷が行われました。

この石標柱は、浜祈祷の斎場を設ける際に建てられたものと思われます。石柱は十三間川(現在の阪神高速堺線沿)の西岸、長峡橋を中心に南北それぞれ400間の地に建っていましたが、時代とともに忘れられ埋もれていました。

明治30年、大阪築港起工式の際、偶然十三間川近くの松林路傍の叢(くさむら)中から発見され、これを記念して宝之市神事が復興されました。石柱は住吉公園西の飛地境内の御旅所(住吉区浜口西1丁目13番)に移転建立され、平成元年12月22日に土地売却のため、境内神池の南牧橋西詰に移転されました。


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08/28/2018

「大和川付替(川違え)工事史」を読む


「すみよし歴史案内人の会」でも「なにわ古文書研究会」でも避けて通れないのが大和川付替の話。
常識レベルのことは頭に入れておかなければ、と読んだのがこれ。膨大な古文書をよく研究して書いてあります。昭和57年1月20日発行、藤原秀憲、新和出版社。

浅香山地区の掘削が順調にいかず、最初に鍬入れをした姫路城主が急死したり、盗難や事故が相次いだため、浅香山に住む1000匹ともいわれる狐退治のため何日間も森を焼いた、などという話も出てきます。もちろん付替え賛成派と反対派の熾烈な戦い、なかでも付替えを進言した中甚兵衛の50年にわたる苦闘が詳しくつづられています。依網池(よさみいけ)の別名となった仁右衛門池(味右衛門池、御依網池=みえもういけ=)に、鷹合村(いまの長居公園周辺)の仁右衛門がわざわざ出かけて身を投げなければならなくなったいきさつも出てきます。

中甚兵衛さんの顕彰碑は東大阪市。近鉄・吉田駅(府立中央図書館のある「荒本」の次)の近くです。「河内甚兵衛」という銘菓もあるようですので、いつか史跡巡りを兼ねて食べに行きたいものです。

同じ著者(藤原秀憲氏)が子供向けに書いた小説「河内の夜明け」も図書館に予約中。また中甚兵衛の10代目中九兵衛(なかくへえ)氏の「甚兵衛と大和川 北から西への改流300年」も本日、追加で予約申し込みしました。

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08/27/2018

マインドコントロールされ続けている日本


元読売新聞記者・ジャーナリストの講演です。

https://www.sankei.com/west/news/180827/wst1808270004-n1.html

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08/20/2018

こちらが本来の目的、「天保期の薩摩藩」


8/19(日)に大阪歴史博物館に行った目的は、特集展示「天保の光と陰」記念講演会「天保期の薩摩藩」を聴くため。隣のNHKで開催されていた鹿児島フェアの記事を先にアップしましたが、遅まきながら講演の紹介を。

講演は、「薩摩藩の天保改革と島津斉宣・斉興」(鹿児島県歴史資料センター黎明館 崎山健文学芸専門員)と「天保期の琉球使節」(大阪歴史博物館 木土博成学芸員)。

江戸時代も終わりにさしかかった天保期(1830~44)。薩摩藩は、大坂で借財の「踏み倒し」に近い大胆な改革を行い、のちに雄藩として台頭する条件を整備していきました。

・収入14万両に対し、500万両(5000億円)もの借金を抱え、倒産状態にあった薩摩藩、島津重豪(しげひで)に抜擢された調所広郷(ずしょ ひろさと)の改革は藩政の隅々に及び徹底し、多大な成果を上げた。幕末の薩摩藩は中央政局で常に重要な位置を占めることになるが、この改革による財政的な裏付けが不可欠だった。ただし、三都の銀主の損害、奄美の黒砂糖地獄(大河ドラマはこの点を正しく取り上げていた)等、多大な犠牲が払われた。
・斉宣による将軍の御台所との密接な関係は、天保期の島津家の地位向上につながった。また大奥の内情を知る契機ともなった。この経験が孫の斉彬に引き継がれた。
・斉彬による近代化事業は、世界遺産になるなど高い評価を得ているが、その素地となる制度や人材育成は(大河ドラマでは徹底して暗君として描かれていたが)父の斉興期にすでに始まっていた。

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08/12/2018

きょうは 1万4千歩、大阪城では豊国踊り


午前中は「すみよし歴史案内人の会」定例会、午後は「住吉大社の歌碑。石標調査」の一環でひとり境内を歩き回って写真撮影、引き続きちん電、バス乗り継いで大阪城天守閣へ。
18時から「豊国踊り」です。
秀吉7回忌に京都でたった1回だけ実施された「豊国踊り」を歴史的・芸術的な考証を経て、大阪城天守閣広場で400年ぶりに再現したのが4年前でした。いまでは大阪の8月の風物詩として定着。私は3年前から参加しています。(ただし見ながら映像を撮るだけ)
ステージ上でOSK日本歌劇団出身の美砂まりさんや宝塚出身の朝宮真由さんなどOSKおよび宝塚のOG 14名が華麗な模範演技を披露した後、ステージからの踊り方レクチャーおよび参加者に交じっての指導があります。

今年も美砂まりさんには元気いっぱい、ほれぼれする「豊国踊り」を見せていただきました。(「豊国踊り」再興に当初から参加されていた美砂さんは、指南役のひとりなのでふつうステージから降りてこないのですが)たまたま今年はステージから降りて「大阪城特製御札」を配布されたので、偶然お話しする機会がありました。「毎年来ています」と言うと「来年もぜひお出で下さい」とのお言葉。

ところで去年も配布された「御札」には「春夏冬二升五合大阪城」と書かれています。どういう意味か分かりますか?
「商いますます繁盛 大阪城」と読みます。家内安全にも霊験あらたかだそうですので、玄関にお供えしておきましょう。

ということで、きょうのスマホ歩数計は、1万4千歩を刻んでいました。

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08/06/2018

特別展「西郷どん」の見どころ紹介


7/28に大阪歴史博物館で開催された「西郷どんセミナー」は前半が学芸員豆谷浩之氏の「展示のみどころ解説」、後半が「島津久光役 青木宗高さんと制作統括 櫻井賢さんのトーク―ショー」でした。
前回、展示を観たのはセミナーが始まる前。そこで2回目は豆谷さんおすすめの展示6点をじっくり観てきました。

1.西郷隆盛肖像画(番号1)
写真嫌いだった西郷の写真は残っていません。今回の特別展入り口に掲げてあるのは、荘内藩士石川静正(しずまさ)の描いたやさしい表情の西郷さん。なぜこれが選ばれたのか? それは石川が明治8年(1875)、旧藩士とともに鹿児島に赴き
、西郷から教えを受けた人物だったからです。まったくの想像でなく、本人を知っていた人が描いた貴重な肖像画です。
石川は、西郷の名誉回復後、旧庄内藩で発行された「南洲翁遺訓」の編纂、頒布にも貢献しています。

2.愛加那宛 西郷隆盛書状(番号80)
西郷の家族思いの一面がうかがえる手紙です。明治6年1月18日付。アメリカ留学中の菊次郎(西郷と愛加那の間に生まれた長男)が元気であること、愛加那のもとにいる菊子の結婚をみすえ、菊子を鹿児島へ上らせるよう依頼。愛加那は西郷の頼みを聞き入れ、明治9年に菊子を鹿児島に上がらせています。同年、菊子は大山巌の弟と婚約しました。

3.一本槍(久光行列の毛槍)(番号87)
幕府に政治改革を要求し、久光一行が江戸から帰る途中、文久2年(1862)8月21日、生麦事件が起きました。そのとき使われた久光一行の毛槍です。ドラマの中でも忠実に再現されていました。

4.西郷隆盛所用刀装具(縁頭ふちかしら・目貫めぬき)(番号234)
西郷が「雪」という優れた猟犬を預かる代わりに贈ったと伝えられる縁頭と目貫です。西郷が陸軍大将を拝命した時、明治天皇から下賜したとされます。
頭には、梅を植えて鶴を飼育して楽しむ中国の詩人の繊細な装飾が施されています。
それにしても、犬のために天皇からいただいたものを差し出すとは・・・西郷の犬好きと人柄が偲ばれます。

5.鹿児嶋征討記の内(番号263)
「西郷星」について紹介している錦絵。明治10年(1877)8月。画面中央に立つ西郷の目の先には、金色に輝く星が現れています。西郷は明治10年9月24日、城山で自刃しました。西郷の魂は天に昇り、星になったといううわさが広がり、人々は夜空にうす赤く輝く火星を「西郷星」と名付けて夜ごと仰ぎ見ました。
偶然、現在(8月)、火星が地球に大接近していますね。

6.西郷像建設案と書類(番号279)、故西郷隆盛翁建碑広告(番号280)
上野の西郷像建設の10年前、京都清水寺参道に馬上の軍服姿の銅像建設を、西郷と親交のあった公卿 植田楽斎が計画しました。高さ54尺の立派なものでしたが、植田の急死により幻の西郷像となりました。
上野の西郷像をみて、糸さんが「こんな人ではなかった」と言った裏には、京都にできるはずだったこの像のイメージがあったのかもしれません。

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07/27/2018

今年の秋、大阪歴史博物館は「住吉が熱い」


大阪歴史博物館で明日からNHK大河ドラマ特別展「西郷どん」がスタートします。
かねて申込んでいた明日のセミナー&トークショー(島津久光=青木宗高、櫻井賢チーフプロデューサー)に運よく当選しましたので、午前中「西郷どん」展を観たあと、参加します。
8/5の講演会(講師はドラマ「西郷どん」の監修者)も当選しましたので参加する予定。

ところで今年秋の大阪歴史博物館は「住吉が熱い!」
8/22~10/29に特集展示「発掘された古代・中世の住吉」があります。荘厳浄土寺から発掘された瓦も出品されます。
10/3~12/3は「大阪の米騒動と方面委員の誕生」。安立町の米騒動を描いた絵も出品されます。安立尋常高等小学校の門が見えますので、霰松原そばの安立小学校の前身ですね。

もうひとつ。関ケ原の戦い後、島津義久が住吉の田辺屋道与に助けられて薩摩に帰ることができたことに恩義を感じ、秘薬の調剤方を伝授、現存する日本最古の製薬メーカー「田辺製薬」(現在、田辺三菱製薬)の誕生につながったというエピソード。田辺さんや住吉大社(島津初代は住吉大社境内で誕生。さらに田辺屋道与が境内に義久から頂いた像を祀る建物を創建)とも連携をとって、広めたいですねえ。


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07/10/2018

「関ケ原 島津退き口(のきぐち)ー敵中突破300里」


桐野作人、学研新書78、2010.5.1 本体790円。

国宝「旧記雑録」等の古文書をもとに、関ケ原で西軍に加わって敗れ、薩摩まで落ち延びた島津義弘のいわゆる「島津の退き口」を丁寧にたどったドキュメント。
複雑な島津家の内情、なぜ西軍に加担したのか、住吉と島津と田辺屋(現存する日本最古の製薬メーカー 田辺三菱製薬のルーツ)との深いつながりがわかります。

今年3月、府立中央図書館の道修町講座で、田辺三菱製薬史料館の方の講演で初めて知った住吉をめぐる秘話。その後、まち歩きや動画で紹介したり、住吉大社とも深いつながりのあったことがわかったり・・・ますます面白くなっていきます。

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07/02/2018

きのうは34.8℃のなか、土佐藩ゆかりの幕末・維新の史跡歩き


住吉から堺まで10キロ、炎天下の中を参加者160人とスタッフ合わせて180人くらい。(大変好評で220人くらいの申し込みがあったため、追加開催が決まったそうです)。
あまりの暑さに、半分のイオンモール(何年か前、東京からやってきた海老名さんたちとダイセル跡地を見学に行ったところ)まででリタイヤした人や途中で脚がつって歩けなくなった人も出た模様。
私は撮影担当ですから、住吉大社~七道は南海電車、高須神社~妙国寺は阪堺電車で移動するというズル?をしましたが、それでもきつかった・・・

帰宅して風呂に入ってひと眠りした後、3分間動画を作りました。字幕作成の前まで完成。きょうは10年間ほど使ってきたガラケーをスマホに更新するため、auショップに行ったり、スマホをいじっていたのでまだ動画作成作業の続きにたどり着いていません。

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