01/22/2019

重文「泉布観」、一般公開


毎年気がついた時は、申込期間が過ぎている「泉布観」の一般公開。
今朝の産経新聞に申込要領記事が出ていたので、忘れないうちに往復はがきを買ってこよう。
(造幣局の前身・造幣寮の応接所。大阪市内に現存するもっとも古い洋風建築のひとつ)

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01/17/2019

きょうは小学3年生に「出前授業」/うつりかわる道具とくらし


「NPOすみよし歴史案内人の会」では今月4回、大阪市住吉区の各小学校を回って、昔の暮らしについて、当時の道具を展示し、実際に使ってもらいながら授業を行います。
私は、いままでタッチしていなかったのですが、次回と次々回は手伝わなければなりませんので、きょうは授業の様子を見学するため、朝早くから出かけました。

内容は、炊事(七輪、羽釜、升、練炭、電熱器)、暖房(長火鉢、湯たんぽ、豆炭こたつ)、照明(提灯、菜種油と灯明、ろうそく、ランプ)、他の家事(洗濯板、かねたらい、上皿天秤、ざる、木桶、樽)その他(糸つむぎ機、柳こおり、下駄、わらぞうり、バリカン、そろばん)など。

小学3年生は全員「おおさか くらしの今昔館」の企画展を見るそうですが、実際に自分で洗濯板と固形石鹸を使って、ごしごし布の汚れを落とすことまでは体験できません。出前授業は、そんな実技まで自分でやってもらいます。みんな目を輝かせて取り組んでいました。私が小さいころ、家に洗濯板はありましたが、自分でゴシゴシやったことなんてあったかなあ・・・

なかにはかなり理論的な子もいて、なたね油のランプを指さして、「どうして下の油が上で炎になるのか、その理屈を教えてください」。

女性の校長先生は「区長さんからこういう出前授業をしていただけるとお聞きし、さっそくお願いしました。まっさきに来ていただけて<やったー!>」
3年生担当の先生からは「私は住吉区育ちですが、<すみよし歴史案内人の会>の存在を知りませんでした。どういうことをされているのですか?」と聞かれ、住吉大社や区内を中心にボランティアガイドを行うとともに、毎月研修会を行って勉強したり、各学習グループでテーマを決めて歴史や地理について調査していること、区の広報紙に記事を連載していることを紹介しました。さらに「あっちにいる女性理事長やこっちの男性は、それぞれ1ページの特集記事で紹介されました」。


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01/14/2019

「日本国紀」で日本歴史をざっと振り返り 11


第6章「江戸時代」(1)

・江戸時代は日本の近代だった。唯物史観の歴史家は、前近代的な文化の遅れた時代と捉えるが、戦乱が終わり、社会制度が急速に整い、国家秩序が安定した。世界に先駆けて貨幣経済が発達し、庶民による文化が花開いた。260年間大きな戦争はなく、日本の歴史上、最も平和で治安がよかった。ヨーロッパ諸国と比べ、民度も知的レベルも高く、街は清潔で、疾病の発生もほとんどなかった。ただ、鎖国によりテクノロジーの分野で後れを取った。→私たちが習った戦後の歴史教育では、江戸時代=暗黒の時代でした。

・徳川家康は「武家諸法度」を制定、200前後の大名(1万石以上の領地を持つ。当時、1人の人間が1年間で食べる米=1石)を管理下においた。→50万石の藩は、50万人を養える国力があったということですね。そう考えると、江戸時代がぐっと理解しやすくなるような・・・。

・現代では大名が治めた地を「藩」と呼ぶが、この呼称は明治以降の言葉。武士は「〇〇家臣」「〇〇家中」と名乗った。地方の土地は「国」(国=日本全体でなく)。

・徳川家の血筋を引く「親藩」、関ケ原の戦い以前から徳川家に忠誠を誓っていた「譜代」は、石高は少ないが要地を与えられ、関ケ原以後に服従した「外様」は石高は多くても僻地に追いやられた。毛利藩はその典型。外様は、財政的に苦しめられた。260年後、江戸幕府を倒す主力は外様の藩士だった。→恨みは相当なものだったでしょう。

・家康は、「禁中並公家諸法度」を定め、朝廷も初めて管理下においた。

・室町時代以降、征夷大将軍は源氏の血を引く武士という不文律があった。家康は系譜を書き換え、正式名「源家康」となった。後の徳川将軍、松平一族もすべて公式文書は「源〇〇」。→細川、島津も「源」だそうです。

・三代将軍・家光は参勤交代と江戸屋敷に妻子を置くことを命じ、大名の力を削いだ。

・老中はいまの首相、親藩や譜代大名から選ばれた。

・家光が始めた「鎖国」は、島原の乱がきっかけ。キリスト教の弾圧を強め、オランダと中国(明のち清)以外の入港を禁じた。他に交易を許されたのは朝鮮と琉球。窓口は長崎、対馬、薩摩、松浦の四つのみ。ただし、「鎖国」という言葉ができたのは幕末以降、定着したのは明治以降。

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01/11/2019

きょうから「日本人の心 楠木正成を読み解く」


皇居外苑の楠公像は住友家から宮内省に献納されたものだったのですね。

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12/30/2018

「日本国紀」で日本歴史をざっと振り返り 8


第四章「鎌倉幕府~応仁の乱」(後)

・南北朝の統一は足利三大将軍義満の時だった。義満の横暴ぶりは凄まじかった。公家の妻や妾を差し出させたり、天皇の権限を奪ったりした。皇位簒奪(さんだつ)を狙う義満の計画は、突然の死亡(暗殺された?)で実現しなかった。→金閣の足利義満はこんなとんでもない人物だったのですか。
・日本の一部の教科書には、「明が勘合を用いた管理貿易に乗り出したのは、もっぱら日本人海賊に苦しめられたため」と書かれているが、正確でない。勘合貿易は、日本に利益を与える代わりに、日本に倭寇を取締らせるものだった。→学者の書いた本が正しいとは限らない。
・今日の日本の歴史教科書は、相手国に対する侮蔑な言葉として「元寇」の使用を避けている。それなら我が国を貶める「倭寇」もおかしい。歴史用語を現代の感覚で言い換えたり、使用禁止にするのは間違いである。→この指摘は前にも出てきました。
・石清水八幡宮で籤引きをして選ばれた「籤引き将軍」義教。激しい気性は織田信長に通じる。→「徒然草」でもおなじみの石清水八幡宮、2年前に行ってきましたが、昔からたいへんな権威を持っていたようです。それにしても籤引きで将軍を選んだとは・・・
・室町文化の特色は「わび・さび」。それを象徴するのが足利義政の銀閣。祖父・義満の金閣に対抗したが、財政難のため銀箔を貼ることができなかったといわれてきたが、平成20~22年の解体修理で否定され、内外の壁が黒漆で塗られていたことが判明している。もともともと金閣・銀閣という名前は江戸時代に付けられた通称で、対照させられる建物ではなかった。→これも意外な裏話です。あの話は間違いだったのか。
・10年以上も続いた応仁の乱は、息子を将軍にしたいという母の我儘な思いから始まったが、これほど無意味で目的もわからない戦いはなかった。まさに「ひとよむなしい(1467)応仁の乱」だった。2年前、応仁の乱がブームになったころ、本を読んだり磯田道史さんのNHK番組を観ましたが、複雑すぎて頭に残っていません。
・応仁の乱により、身分制度・法秩序が崩壊し、下剋上の思想が生まれた。
・琉球独立を唱える人々の中には、琉球はそもそも日本ではないと主張する者がいるが、民族的にも言語的にも日本である。中国に対して朝貢貿易をしていた歴史はあるが、中国の領土だった時代は一度もない。→中国が喜びそうな主張をする人がいますが、本気?

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12/29/2018

「日本国紀」で日本歴史をざっと振り返り 7


第四章「鎌倉幕府~応仁の乱」(中)

・「文永の役」「弘安の役」は、現在「元寇」と呼ばれるが、これは江戸時代に徳川光圀が「大日本史」で使ったもの。最近の歴史教科書は、「元寇」「蒙古襲来」はモンゴルや中国に対する侮蔑的な言葉であるから使わないという流れになっている。笑止千万である。歴史用語を現代的な感覚で言い換えたり、使用禁止にする行為は、歴史に対する冒とくである。→江戸時代に水戸光圀が作った言葉だったとは・・・
・世界の大半を征服したモンゴルからの攻撃を二度まで打ち破った国は、日本とベトナムだけ。→へーえ。
・困窮した御家人、不満が蓄積していった武士・・・治安が乱れ、西日本各地に徒党を組んで他人の土地や財産を奪う武士集団「悪党」が生まれた。14世紀になると、悪党は幕府の権限も及ばないものになっていく。→現在の「悪党」とはニュアンスが違っていますね。
・優雅を重んじた平安の貴族文化から質実剛健な武士の文化へ。「平家物語」などの軍記物語、説話集、随筆の「徒然草」「方丈記」、力強さにあふれた運慶・快慶の金剛力士像など。→武士らしい文学、芸術が花開きました。
・「救済は僧によってもたらされる」とする従来の仏教に対し、「個人でも念仏を唱えれば救済される」と説いたのが法然と親鸞。平安時代末期の仏教界はすっかり堕落腐敗していた。親鸞は、偽善と欺瞞を打ち破るため、あえてそれまでの僧が隠れて行っていた肉食妻帯を公言した。→堕落腐敗していた仏教に新風を吹き込んだのが、法然・親鸞だったということですね。
・南北朝に分かれたのは、持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)に分かれたのがきっかけ。室町時代には南朝が正統と見做されていたが、その後は北朝が正統とされた。江戸時代になって、水戸藩が編纂した「大日本史」は三種の神器を捧持(ほうじ)していた南朝を正統とし、南朝正統論が有力となった。ただ、北朝が持っていた三種の神器が偽物というのは後醍醐天皇の主張によるもので、実は本物だった可能性が高い(足利尊氏が南朝と和議を結んだとき、南朝は北朝から三種の神器を取り戻した。偽物なら取り戻す必要はない)。
南朝が正統との考えは、明治になっても受け継がれた。学会においては、南朝・北朝が対等に扱われ、国定教科書もそうなっていた。ところが明治44年に、国定教科書が南朝を正統とし、以後、北朝は認められなくなった。以後、大東亜戦争(世界大戦は、戦後GHQが押し付けた名称)終結まで「南北」という言葉は学会で禁句となった。北朝の5代の天皇は、歴代125代の中に数えられていない。→南朝の御村上天皇は住吉に置かれた行宮(あんぐう)で最晩年の8年間を過ごしました。御村上天皇は「建武の中興」をリードした後醍醐天皇の皇子、住吉の行宮(天皇の仮の住まい)は住吉大社の神主・津守氏の居館(正印殿)でした。行宮跡は住吉大社の近くにあり、「NPOすみよし歴史案内人の会」のまち歩きコースの中にも組み込まれています。

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12/28/2018

「日本国紀」で日本歴史をざっと振り返り 6


第四章「鎌倉幕府~応仁の乱」(前)

・鎌倉幕府成立は、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とされてきたが、現代ではそれ以前に始まっていたとする説が主流。1180、1183、1184、1185、1190年説などがある。
・鎌倉幕府という概念は、明治時代に生まれた。当初の鎌倉幕府は東国支配の地方政権、西日本は朝廷が実権を握っていた。
・北条氏は源頼朝の庇護者であり、頼朝の妻・政子は北条氏の出。当時は女性が結婚しても出身家の姓を名乗っていたので北条政子と呼ばれた。→住吉大社の「誕生石」は、北条政子が<頼朝の子を身ごもった丹後局>を殺そうとしたため、住吉大社境内まで逃れてきた丹後局が大きな石を抱えて出産した場所と伝えられる。このとき生まれたのが、島津家初代・島津忠久。
・北条政子が尼将軍と呼ばれるのは、鎌倉政権に不満を持つ武士や僧兵に対抗するため、御家人(頼朝と主従関係にある武士)を集め、頼朝がいかに彼らのために戦ってきたかを熱く説いた名演説に由来する。
・「一所懸命」は鎌倉幕府の御家人が、自分の土地をしっかり耕し、命を懸けても守り抜くというのが語源。一方、御家人たちは日常的に戦いの訓練を怠らず、もし鎌倉に危機が迫れば、馳せ参じた(「いざ鎌倉」)。→井上章一「京都ぎらい 官能篇」P229によれば、「関東の御家人たちは、おおむね自分の在所にとどまった。一所懸命ということでもあるのだろう。日常的に鎌倉へ出向く習慣はなかったようである。鶴岡八幡宮の修理にこいというていどの要請なら、たいてい理屈をつけてことわった。「いざ」という時にしか、かけつけなかったということか」
・12世紀の終わりに、チンギス・ハーン率いるモンゴルが突如、ユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国を築いた。その版図は歴史上最大で、世界人口の半数以上を統治した。
・その孫、フビライ・ハーンは日本に武力制圧をほのめかす国書を送ってきた。朝廷はおろおろするばかりだったが、北条時宗は断固黙殺した。現代の歴史学者の中には、国際情勢と外交に無知だったと批判する人がいるが、無礼な手紙に返事をしないのは当然。彼は屈辱的な外交はできないと、恫喝に委縮することなく、誇りを持って対応した。1237年、元(蒙古)は対馬・壱岐を襲い、多くの島民を虐殺した(文永の役)。捕虜の女性の掌に穴を空け、繩を通して舟べりに吊り下げた。2週間後、軍船は高麗に引き上げたが、多くが沈んだ。かつては台風のためとされたが、新暦11月であり、玄界灘の時化に巻き込まれたと考えられる。
・1275年、時宗は元の使者を斬首した。現代の学者は批判するが、彼らは日本の地理や国情を調べる偵察員だった。1281年、元は世界史上最大規模(4500艘、14万人)の軍隊を送り込んできたが、大型台風も襲来し、元軍は壊滅状態になった。

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12/27/2018

江戸の大坂を、現在の地図上に精密に復元


面白い地図を見つけて買ってきました。1080円。
大坂三郷および天王寺周辺、平野郷、住吉大社門前の江戸時代の絵地図を利用し、川と堀・橋と渡し・街道と口・通りと筋の位置を、国土地理院の1万分の1地形図上に、精密に復元してあります。
さらに居住地の区分を大坂城および武家地・寺院地・神社地・町地・町続在領に分類し、色分けしてあります。
武家地については、城代屋敷・東西町奉行所・与力同心屋敷など幕府関係の施設が大坂城を中心に立地し、諸藩の蔵屋敷が中之島周辺に集中していることも一目瞭然、。大坂の有力町人の居住地も示してあります。例えば「あさが来た」にも出てきた天王寺五兵衛や平野屋五兵衛が住んでいたところとか。
さらに、芝居小屋や遊郭、名所旧跡なども書いてあり、住吉大社の御田植神事とも縁のある新町廓があった場所もすぐ見つかります。
この地図を眺めると、天下の台所・大坂の繁栄ぶりがよくわかってきます。

なお、住吉大社の境内には、いまはなき神宮寺があり、少し離れたところに津守寺もあります。いまは卯の花苑のところに移動している東鳥居も、東門の位置に描かれています。

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昨日は「むかしのくらし展」へ


私もメンバーの一員になっている「NPOすみよし歴史案内人の会」は、ボランティアガイドやシンポジウムの開催だけでなく、小中学校に出掛けて、出前授業もやっています。テーマは「むかしのくらし」や「リースやしめ縄作り」「住吉大社が日本遺産に認定された北前船とは」など。

私は今まで手を挙げていなかったのですが、「1月下旬の<むかしのくらし>授業は、あなたの家の近くの小学校だから」と断れない雰囲気に。

そこで、ちょうど「くらしの今昔館」で「むかしのくらし展」を開催中なので、バスと地下鉄を乗り継いで何ヵ月ぶりかで天神橋筋六丁目の同館へ。

写真OKでしたので、貴重な昔の道具(あんどん、氷冷蔵庫、洗濯板、ダイヤル式電話機、はえとり器、かまど、はがま、ちゃぶ台など)をカメラに収めてきました。

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江戸の大坂を、現在の地図上に精密に復元


面白い地図を見つけて買ってきました。1080円。
大坂三郷および天王寺周辺、平野郷、住吉大社門前の江戸時代の絵地図を利用し、川と堀・橋と渡し・街道と口・通りと筋の位置を、国土地理院の1万分の1地形図上に、精密に復元してあります。
さらに居住地の区分を大坂城および武家地・寺院地・神社地・町地・町続在領に分類し、色分けしてあります。
武家地については、城代屋敷・東西町奉行所・与力同心屋敷など幕府関係の施設が大坂城を中心に立地し、諸藩の蔵屋敷が中之島周辺に集中していることも一目瞭然、。大坂の有力町人の居住地も示してあります。例えば「あさが来た」にも出てきた天王寺五兵衛や平野屋五兵衛が住んでいたところとか。
さらに、芝居小屋や遊郭、名所旧跡なども書いてあり、住吉大社の御田植神事とも縁のある新町廓があった場所もすぐ見つかります。
この地図を眺めると、天下の台所・大坂の繁栄ぶりがよくわかってきます。

なお、住吉大社の境内には、いまはなき神宮寺があり、少し離れたところに津守寺もあります。いまは卯の花苑のところに移動している東鳥居も、東門の位置に描かれています。

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