05/18/2017

忍者はすごかった

http://www.sankei.com/west/news/170518/wst1705180004-n1.html

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05/17/2017

井沢元彦氏講演会

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中世すみよしの歴史


土曜日の午前中は、「すみよし歴史案内人の会」の総会と定例会、午後は大阪市史編纂所調査員で関西大学の先生から「中世のすみよし」と題する講演を聴きました。
あらためてこの地域が住吉大社1800年の歴史と共に歩んできたことがわかりました。しかも日本を揺るがせた大事件、戦いのほとんどがこの地域に密接に関係しています。

日文研・井上章一先生から司馬遼太郎学術シンポジウムでお伺いした教科書で学んできた従来の東大学派の歴史解釈の誤り(戦国時代の始まった時期。鎌倉幕府(武士)が日本を統率していたわけではなく、公家と寺社の力は相変わらず強大だったなど)を学びびました。

非常におもしろいお話でした。来月は「逆説の日本史」で有名な作家・井沢元彦氏の講演会があります。予習を兼ねて、買ってきた井沢さんの本を読みかけていますが、水戸光圀(黄門さん)が若い頃、街に出て何の関係もない町人を切り殺し、後悔していた話が出てきてびっくり。平和な時代でも武士は人を殺す技を磨いておかなければならない、という理屈だそうですが、現代の感覚から時代背景を理解するのは難しいですね。

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05/04/2017

昔習った「大化の改新」、今では「乙巳(イッシ)の変」に

4/20のNHK BSP「英雄たちの選択」は、「古代史ミステリー 乙巳の変 蘇我氏はなぜ滅ぼされたのか?」 」でした。
ん? イッシの変ってなに? と思って観たのですが、645年に起きた我々が学校で「大化の改新」と習ったあのクーデターのことでした。

磯田道史日文研准教授によれば、<昔は、クーデター事件からその後の政治改革までを一連のものとして扱っていたが、およそ60年ちょっと前から研究者の間で、大化の改新という政治改革が本当にあったのかという意見が戦わされた。日本書紀は脚色されており、藤原氏が書いた歴史書なので自分の祖先の藤原鎌足がやった革命がいかに革命的で抜本的だったかを示すため、後の時代でやったことまで、すべて大化の改新のときやったことにしている。歴史科学的には正確でないというのでクーデター事件と政治改革を分けて科学的に書こうじゃないかという意見が増えた。いまではクーデター(わずか2日で終わった)だけを乙巳の変、そのあとは中大兄皇子がやった、藤原鎌足とかがやった改革というふうに分けて考えるようになった。いまでも論争が続いている>
ということだそうです。

最近の教科書には、乙巳の変という言葉も出ているようです。

まとめると
乙巳の変:645年の中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺などのクーデターを指します。
大化の改新:その後に行なわれた天皇の権力強化と中央集権化を目指す一連の政治改革を指します。

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05/01/2017

「木×仏像 飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年」その3

木彫仏についての専門語をいろいろ知りました。

一木造(いちぼくづくり)=仏像の根幹となる頭部と体幹部とを一本の木材で造ること。両腕や脚部などに別の材を用いても根幹が一材から造られていれば一木造という。内部と外縁部で乾燥の進み具合に差が生じ、裂けるような干割れ(ひわれ)を起こしやすい。

内ぐり=像の内部を彫り出すことで、内外部の乾燥の度合いを均一に保ち、干割れを防ぐ。重量も軽くなる。内部に収納品を入れることもできる。

割はぎ造(わりはぎづくり)=材を割り、内ぐりの後、再度接合する技法。

寄木造(よせぎづくり)=像の頭部と体幹部に、複数の部材を組み合わせる技法。材の制限を受けずに巨大な木彫像が制作できる。

木彫仏の素材=初期はクスノキ、次いでカヤ→ヒノキという大きな流れに、ケヤキ、カツラ、サクラなどが加わる。

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04/20/2017

「公」の精神、楠木正成公を考えるシンポジウム


今朝の産経新聞1面の記事です。

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04/18/2017

天下の台所、大坂蔵屋敷の特別展


大阪くらしの今昔館で 4/22~5/28。江戸時代、全国の諸藩が年貢米や特産品を換金するために大坂に設けたのが蔵屋敷です。
産経新聞 4/18朝刊。

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04/17/2017

醍醐の花見行列に登場した女性「孝蔵主」とはだれか?


4/9、醍醐寺の「豊太閤花見行列」に、「孝蔵主」(こうぞうす)という美女が登場しました。聞いたことのない女性だったので調べました。

角川文庫版司馬遼太郎「豊臣家の人々」46ページに次の文章が出てきます。

<これは(秀吉が差し向けた関白秀次への)死の死者である、と秀次は直感し、あくまでもかぶりを振り、(秀吉からの伏見への呼び出しを)受諾しなかった。ところが伏見から別な説き手がきて、別室で内謁を申し出た。尼の孝蔵主という老女である。北ノ政所の筆頭女官で、秀次は少年のころから、この尼とは親しかった。「尼の申すことをお聞きあそばれよ」と、彼女は笑顔でいった。太閤様は上機嫌でございます、いえいえ殿下をいささかもお疑いではございませぬ、この上はなんの御懸念がございましょう、という。秀次は宿老の大名どもには警戒したが、この尼には釣られた。秀吉の計略はあたった。この尼の方が、じつは死の死者であった>

伏見に行った秀次は捉えられ、高野山に送られ、そこで腹を切らされることになります。
北ノ政所側近の女官・孝蔵主が歴史上の大役を果たしたことがわかります。

それにしても、司馬さんの「豊臣家の人々」には、大河ドラマ「真田丸」で弱弱しく正直そうで、淀殿に拾が生まれて秀吉からうとまれた可哀そうな人物として描かれていた関白秀次(秀吉の姉夫婦の子供)の無能で残虐な実像が次々暴かれています。

・無能と臆病のため、小牧・長久手の戦いで全軍壊滅し、その後の歴史を変えた。
・関白になってからも、町に出て辻斬りをして町民を殺し、手ごたえをおもしろがった。「公家共に、これだけの勇気はあるまい」。
・三十余人の妾(十代が十一人、三十代が四人、四十代が一人、六十代が一人、あとは二十代)のなかには、母娘も含まれ、「母子併姦など、もはや畜生道である」、と言われていた。

「真田丸」では自分から姿を消し、高野山で自害したことになっていたのでしたっけ? 実際は秀吉がそう仕向けたということですね。


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04/15/2017

五代友厚史跡案内板ゆかりの地に設置


大阪商工会議所と大阪市交通局がキャンペーンをやってるようです。

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04/14/2017

五代友厚ツアーのパンフレット

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170412/20170412029.html

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