04/11/2018

きょうの「歴史秘話ヒストリア」はあの話です


今年3月に聴いた「田辺製薬と島津義弘と住吉の関係」の話がテーマのようですね。田辺や住吉が出てくるかどうかはわかりませんが。講演会について書いた私のBlogは次の通り。
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住吉大社に島津家初代・島津忠久がここで生まれたという「誕生石」があります。
3/17、大阪府立中之島図書館でおこなわれたセミナー「薬の町 道修町講座」の中で、住吉と島津家の関わりをもう一つ聞きました。

現存する製薬会社の中で日本最古の田辺製薬(現 田辺三菱製薬)の田辺家は、戦国時代、朱印船貿易を手掛けた豪商です。薩摩の島津家とも深いつながりがありました。とくに 関ヶ原で敗れた島津義弘が薩摩まで撤退する途中、田辺屋道與(どうよ)が助け、大阪の住吉に匿ったそうです。その恩義から島津が田辺に秘薬の調合法を伝授し、「たなべや薬」を発売し大ヒットしました。これが田辺製薬飛躍の礎となります。セミナーの中では、同社のその後の苦難の歴史も詳しく紹介されました。

田辺家が島津義弘を住吉に匿って助けなければ、田辺製薬は生まれなかった・・・

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04/10/2018

瀬戸大橋開通30周年記念ヘッドプレートを付けた第1号電車乗車記念品

これをねらっていた訳ではありませんが、偶然自分の乗るマリンライナーが「瀬戸大橋開通30周年記念のヘッドプレートを付けた第1号電車でした。
香川県知事、岡山県副知事、JR四国社長などそうそうたる財界人を集めて、ホーム上で「披露式典」と「発車式」が行われました。

小学校の修学旅行で宇高連絡船に乗って、高松(屋島、栗林公園)、琴平等を回ったことを懐かしく思い出します。30年前の瀬戸大橋開通は本州と四国の人と物の移動を画期的に変化させました。道路だけでなく、鉄道併用ということも威力になりました。この30年間の利用者数は2億6千万人だそうです。

昔の宇高連絡船の名残りで、以前の高松駅は今より海に近いところにありました。長らく移設工事中の高松駅を利用して四国に出張していたことも懐かしいですね。

写真(後程追加)は瀬戸大橋開通30周年記念のヘッドプレートを付けた第1号マリンライナーに乗り合わせた乗客全員に配られた記念品です。

現場でNHKのインタビューに応じたのですが、帰宅して「NHK Web 香川のニュース」を見ると、画像はありませんでしたが(岡山で行われた式典の方は映像も)、「大<瀬戸大橋開通の思い出>阪の自宅にもどるために駅をおとずれていた70代の男性は「瀬戸大橋は景色がきれいで気持ちがいいです。記念列車に乗ることができてうれしいです」と話していました」という記述が・・・。これ、私が喋った話の一部です。小学校の修学旅行で宇高連絡船に乗った話もしたのですが。

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03/22/2018

3/22の「私の拉致取材」は引き揚げられた北朝鮮工作船

2003年、東京で会議の翌日(休日)、大阪へ帰る前に見に行きました、東京・お台場「船の科学館」に。会期中160万人が押し寄せ、その後、横浜の海上保安庁資料館に展示され、そちらでも昨年夏末までに300万人が見学しています。

安倍さんが展示品を覗きこんでいる写真が掲載されていますが、当時は官房副長官だったんですね。

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03/20/2018

堺事件、幕末の大坂、大河ドラマ「西郷どん」

今日は天王寺区民センターで講演会「講談と講演で巡る<幕末・維新のおおさか>」を聴講しました。第1部は旭堂南海氏による講談「堺事件~命をかけたクジ引き」。第2部は大阪城天守閣 宮本裕次氏の講演「幕末大坂城と上町台地」。
宮本氏によれば、徳川家茂(いえもち)は文久3年(1863)、将軍として家光以来229年ぶりに大坂城入城、大坂湾巡視を行い、精力的に公武合体を目指して行動します。翌年も大坂にやってきて、慶応元年6月から大坂城で過ごし、幕府政治の中心地は江戸から大坂に移ります。江戸から将軍がいなくなったのです。家茂は広大な大坂城を隅々まで巡視、訓練の上覧を行い、国難に立ち向かう自らの意気込みを示し、城と自身との一体化を図りました」。
慶応2年6月19日には天守台のぼり、22日にも櫓に入っています。ところが25日以降は自室から出ておらず、7月20日に死去しました。死因は脚気による心不全と虫歯による体力低下とみられています。ドラマでもお菓子を食べるシーンが出てきました。戦後、死体を発掘し解剖したところ、虫歯でなかった歯は1本しかなかったそうです。
ちょっと意外な家茂の実像でした。

さらに意外だったのは、「14代将軍家茂が大坂城に住むようになった慶応元年閏5月以降、江戸には将軍がいなくなった」こと、「15代慶喜が将軍になったのは京都であって江戸ではなかった」こと。「慶喜は大政奉還後も朝廷の猛反対を推しきって兵庫港を開港させるなど、新しい政治体制を指向して精力的に活動していた」んですね。

歴史はしばしば、後世の人々による当時の社会を都合よくとらえようとする姿勢(古い体制は悪く、新しい体制は良い)などによってゆがめられるということがよくわかります。

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02/26/2018

信貴山寅まつり 2018 /信貴山と聖徳太子/その3

王寺駅北口に犬の石像があります。「聖徳太子の愛犬 雪丸」と書いてあります。人間の言葉を理解した賢い犬と伝えられます。王寺町のマスコットです。寅まつりのイベントのひとつとして、朝護孫子寺の境内を雪丸のゆるキャラが歩いていました。

信貴山と聖徳太子のつながりは「その2」で書いた通りです。境内の本坊そばに、聖徳太子が馬に乗って笛を吹いている珍しい像があります。腰には刀を差し、背中に矢を背負っています。戦闘に出かける前の聖徳太子の姿でしょうか。意外な聖徳太子像にちょっとびっくり。

並んで立っているのが、神木「かやの木」。聖徳太子が物部守屋勢を打ち破る100年も前に芽吹いた木です、お寺の御神木なっています。


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信貴山寅まつり 2018 /信貴山は寅に縁があるお寺/その2

住吉大社は「卯」と縁がある神社として知られます。反り橋を渡ったところある手水場は、兎から水が出ていますし、境内に翡翠の「撫で兎」もあります。神功皇后がこの地に住吉大社を御創建されたのが、卯年卯月卯日だったと伝えられるためです。

一方、信貴山の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は、「寅」に縁のあるお寺です。1400年あまり前、仏教を普及させようとした蘇我氏とこれに反対する物部氏が争ったとき、信貴山で戦勝祈願をした蘇我方の聖徳太子の前に毘沙門天が現れ、必勝の秘法を授けました。おかげで戦いに勝った聖徳太子は、ここに伽藍を建てました。太子が毘沙門天に出会ったのは、「寅年の寅の日、寅の刻」だったと伝えられます。

境内には名物の大寅の張り子があります。頭が動いていました。寅まつりのイベントとして、無数の張り子をピラミッドのように積んで寅供養(法要は25日)も行われていました。本堂には大小の張り子の寅が並び、大きいものは祈祷料として2万円。張り子の寅の絵付け(1,000円)もやっていました。その他、境内のあちこちに寅の張り子が・・・翌25日には寅年生まれの男女が寅の張り子と共に練り歩く寅行列も行われる予定。
そうそう、信貴山大橋のたもとにある白虎の像も虎と言えば虎ですね。

ついでに信貴山名物は「寅まんじゅう」です。同じ虎でも「しまじろう」と違って、怖い顔をしています。孫に渡して来たけど、「怖い!」とか言ってないかな?

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02/20/2018

きょうは大阪府立中央図書館で「わろてんか」展 (その1)

昼から東大阪の府立中央図書館へ。1回展示コーナーの<「わろてんか」の時代の上方演芸>展を観るためです。

大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)収蔵資料と、NHKから借りてきた朝ドラ「わろてんか」の小道具が並んでいました。

ミスワカナ・玉松一郎は、ミスリリコ (広瀬アリス)アンド シローのモチーフとなったコンビです。ミスワカナは昭和21年、36歳の若さで亡くなったんですね。私が生まれた前の年です。エンタツ・アチャコは男性コンビの「しゃべくり漫才」、ミスワカナ・一郎は男女コンビのしゃべくりと楽器の「歌謡漫才」で一世を風靡しました。

ミスワカナは、「おもろい女」として、昭和53年と平成27年に舞台で上演されています。その時のパンフレットがありました。主演は、生前のワカナと交流のあった森光子(昭和53年)と藤山直美(平成27年)。
ミスワカナ・玉松一郎の漫才「ワカナの砂糖情話」のSPレコードやテイチクレコードのジャケットもありました。

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02/07/2018

北朝鮮による拉致の手口


最初に拉致疑惑をスクープした産経新聞元社会部記者・阿部雅美氏による連載「40年目の検証 私の拉致取材」、きょうの誌面は第27回です。
被害者になりすます背乗り(はいのり)という方法が紹介されています。
1.役所の戸籍担当職員を買収し、死亡の戸籍処理がされていない死亡者戸籍を入手し、その身分を盗用する。
2.日雇い労働者、失業者に接近し、買収して戸籍を入手、その対象者を北朝鮮に拉致(日本にいてもらっては困るので)した後、身分を盗用して対象者に成りすます。

対象者は、日本人で独身、身寄りのない者、日本の警察に指紋や写真を登録されていない者(逮捕歴がない)だったそうです。Dsc_0016


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02/05/2018

台湾各地で日本建造物保存

http://www.sankei.com/world/news/180205/wor1802050016-n1.html

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02/04/2018

「わろてんか」でテンが売っていた平野水とは?


企業家ミュージアムの「吉本せい」特別展(すでに終了)に、吉本せいの創意工夫として、朝ドラにも出てきた「座布団の敷き方を工夫して2人でも3人でも多く座れるようにした」り、夏には小屋の前で「冷やし飴を氷の上に並べ、ゴロゴロ転がせて冷やし、1本2銭で売った」り、館内では「おかきやせんべい、焼きいかなど喉の乾きそうな食物を販売」したこと、相乗効果で飲料(ラムネ、平野水)もよく売れたことが紹介されていました。

ところでラムネはわかりますが、「平野水」っていったいなに? ということでスタッフ(アルバイト?)の叔父さんに聞くと「さあ・・・」(博物館で働いているのに、展示物の説明もできないなんて)

帰宅後、ネットで調べて分かりました。

<明治14年、兵庫県川西の炭酸を含んだ水が名鉱泉として紹介され、飲料用としてビン詰めの「平野水」という商品名で発売されました。これが日本で初めてのサイダーであるとされ、大正の中頃に、平野駅北部一帯には、東洋一の規模といわれた清涼飲料水工場があり、後に加工されて「三ツ矢サイダー」になりました。現在は、工場跡地に散在する、炭酸ガス捕集塔、三ツ矢サイダーの碑等の整備をし、旧御料品製造所をできる限り往時の雰囲気を残しつつ改修を行い、平成13年3月より三ツ矢記念館として開館していました。ただし、 三ツ矢記念館は、隣接する店舗の閉店により、平成16年12月21日より見学できなくなっています。>

三ツ矢サイダーの起源だったんですね。

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